<管理人・田辺国武 身上書>

 

 中学時代             高校時代      社会人時代                                      現在

四国山脈の瀬戸内海側の山村(新宮村)で、6人兄弟の末っ子として生まれる。「古今和歌集」「土佐日記」の作者・紀貫之が、土佐守として930年入国の際通ったといわれ、源平の最後の戦いの場ともなった小さな村である。現在は、合併して紙の町として有名な四国中央市となっている。また「霧の森大福」が全国的に人気を呼んでいる。

生家は、四国山脈中腹(海抜600m)の築200年ほどの萱葺き、道路も電気もないランプ生活、中学二年まで登山通学だった。雪は、一メートルくらい積もることもあった。先代のお墓は、元文2年(1737)、文政10年(1827)、天保11年(1840)から保存されていた。祖先は、紀州から移って熊野神社を建立したとも言われているが、生家には、火縄銃、薙刀、弓矢、刀があったことから平家の落人かも知れない。 


学校は、道なき道を駆け下りて40分、帰りは2時間の登山通学、同級生は8名だった。 小学時代の通信簿には「態度が悪い!字が汚い!」と書かれ続けた。中学1年の11月父が逝った。その代りのように現れた「高村行光先生」とは、宿直時の夜中に給食用のミルクでパンを食べながら徹夜で話し込むことが多かった。「赤いチューリップ純情初恋物語」と題した、淡い思い出も遠い昔の時間の中の忘れ物。


中学3年でお山を下りて町の中学校から愛媛県立三島高校へ。通学時間3分の兄宅居候。一気に友達も増え、生徒会、部活動、社会奉仕活動などで結構忙しく、勉強する時間がなかった(?)高2の修学旅行で 富士山と東京タワーに大感動、上京を決意?した!(毎日、富士山眺めている今の生活など夢にも思いませんでした)


東京オリンピックの春(1964)、高松港の蛍の光に送られて宇高連絡船で瀬戸内海を渡り、東海道線夜行列車の通路に敷いた新聞紙上で転がり睡眠、18時間後の明け方、憧れのお江戸へ着いたのだった。真っ先に東京タワーへ登った。(何しに行った?)

護国寺近くの文京区音羽に下宿した5月のある日のこと、あてもなく乗った都電が、後楽園球場に着いた。気の向くまま巨人・阪神戦をライト側外野席でナイター観戦。王選手のホームランが、ふわーっと夜空に美しい放物線を描いて四本も飛んで来て度肝を抜かれた思い出も遠い昔の話。


<特技?> 「炭焼き」「和紙製造」を得意?とする。学生時代、窃盗犯人を現行犯逮捕して警視総監から感謝状をいただいた。

 <趣味> くるま・ドライブ、野球、スキー、相撲、ボーリング(プロ目指した事も)、読書は仕事の一環だが、老眼を言い訳にすっかり読まなくなり、専門書5~6冊残して処分した。