四国中央市

愛媛県四国中央市は、南に法皇山脈があり、北は瀬戸内海燧灘に面する。平野部が狭小のため,山地から海に向かっ て「やまじ」と呼ばれる局地風が吹きおろす。同じ東予地方西条市新居浜市今治市と並んで愛媛県・四国地方を代表する工業都市のひとつであり、日本有数の製紙産業地帯となっている

四国中央市の市域は1878年の郡区町村編成で宇摩郡が設置された地域である。その後、昭和の大合併を経て宇摩地方は伊予三島市川之江市など2市 1町2村に再編された。平成の大合併で2市1町1村(伊予三島市・川之江市・土居町新宮村)が新設合併し、2004年4月に四国中央市が誕生した。

四国全体からみれば宇摩地方は、高松自動車道松山自動車道徳島自動車道高知自動車道が結節しており、四国の県庁所在地松山市高松市徳島市高知市)すべてにアクセスしやすい交通の要衝である。そのため、将来的に道州制が導入された際に州都または道庁所在地になるという将来構想を込めて、「四国中央市」の市名が採択された。

地理

国道319号から市街を望む
土居町から赤星山を望む

高速道路が交差する交通の要衝であり、60km 南に高知市、70km 北東に高松市、80km 西に松山市、100km 東に徳島市が位置する。高速道路網の整備により、川之江ジャンクション川之江東ジャンクションを持ち、四国の「エックスハイウェイ」が交差する中心地となっている。

市の南部に東西に連なる法皇山脈の山々が屏風のようにそそり立っている。平地は山地の北側に細長く展開し、北は燧灘に面している。中央構造線が山すそに沿って、東西に走っている。法皇山脈の南側に吉野川の支流の一つである銅山川が東流し、そのさらに南には高知県との境をなす四国山地の山々が連なっている。

市域で発見された遺跡から、この地方に人が住みはじめたのは1万2000年以上前と考えられる。最初に人が住んだのは金生川流域の丘陵地帯で、その後縄文時代から弥生時代にかけて海岸の平野部に生活の範囲が広がっていった。

古墳時代中期には木梨軽皇子の墓といわれている東宮山古墳が作られている。古墳時代後期の6世紀になると丘陵地帯に古墳が作られるようになった。7世紀前半には四国最大級の石室を持つ宇摩向山古墳が作られた。急峻な山地と狭く長い平野のため、大きな権力を持つ社会の形成は遅かったようである。

古代

大化の改新後、この地域は宇摩郡と呼ばれるようになり、古代官道など交通網の整備によって南海道に伊予国大岡駅が設けられ、中央から伊予・土佐への交通の分岐点となった。この宇摩郡と四国中央市の市域はほぼ一致する。

近世

江戸時代

1636年、一柳直盛が伊勢国神戸藩から西条6万8600石に封ぜ られた。ところが直盛は封地に赴く途上で病没してしまう。直盛の領地は3人の子に分知され、川之江2万8600石は,次男一柳直家の所領となった。しかし、直家も1642年に病没し、養子一柳直次への相継が幕府に認められず播磨国へ転封となった。所領は天領となる。その後,宇摩郡の天領が, 西条藩や今治藩の所領の代替地として与えられたので,宇摩郡は徳川幕府今治藩西条藩の領地が複雑に入り組む状態となった[1]。幕府領の陣屋を川之江に置き、周辺にあった新居郡讃岐国那珂郡小豆島天領を支配していた。

一説によると宝暦年間1751年 - 1764年)に宇摩地方の製紙業の基礎が築かれた。

近代

明治維新後の1878年、郡区町村編成法が施行されると現在の四国中央市域に宇摩郡が設置された。郡役所は人口が最も多く、商業施設も集積しており、また天領時代に代官所が置かれた川之江村に設けられた。しかし、位置的には宇摩郡の東端に近かったため、西部の三島・土居の住民が国・愛媛県に郡役所移転を要望し続けた[1]明治維新後、交通手段が徒歩から船や鉄道に変わると、川之江の交通の要衝としての重要性は相対的に低下した。

1889年 町村制の施行により、郡内の51村が合併し23村になった。川之江・二名・金生・上分・金田・川滝・新立・上山・松柏・三島・中曽根・ 中之庄・寒川・豊岡・金砂・富郷・野田・津根・小富士・土居・満崎・関川・ 別子山(1898年から1952年にかけて、三島・川之江・上分・金生・寒川は町制を施行)

天領だった川之江は、幕末土佐藩が駐留した縁で、土佐出身の板垣退助率いる自由党系とのつながりが深かった。一方、三島は進歩党系に接近し、進歩党系松方正義政権下の1897年に宇摩郡役所の三島村移転を成功させた。これ以降、「川之江は政友会・三島は改進党(民政系)となり政争のしのぎを削る基となった」 。また「各官庁が三島に移ったことが、宇摩郡東西に長くしこりを残す因をなした」とされた[1]

篠原朔太郎の研究により機械動力を利用した製紙業が行われるようになる。第2次世界大戦太平洋戦争)後は近代的製紙業の発達とともに急速に発展した。

現代

1950年代前半の「昭和の大合併」では、宇摩市構想が持ち上がった。しかし、宇摩郡東部の川之江町・金生町・上分町・妻鳥村・金田村・川滝村が合併し川之江市を成立させたため、実現は断念された。西部の三島町・寒川町・松柏村・豊岡村・富郷村・金砂村は合併して伊予三島市を成立させた。この結果、宇摩郡は、川之江市・伊予三島市、宇摩郡土居町新宮村別子山村の2市1町2村に再編された。

2003年 別子山村が隣接する新居浜市と合併。2004年平成16年)4月1日、川之江市・伊予三島市・土居町・新宮村が新設合併して四国中央市が生まれた。市名は将来、道州制が導入される場合の道庁所在地ないし州都になる事を目指して決められたという。

交通史

戦国時代には、四国でも産業が発展し各国の交流が増加した。それに伴い、交通の要衝として戦略的に重視されるようになり、たびたび讃岐・阿波・土佐から侵略をうける。3つの国境に接する市域の東部では特に防衛のためのが多く築かれ、現在もいくつかの遺跡が残されている。

金生川の河口は川の江と呼ばれ、河口付近の浅瀬を港として利用されるようになった。江戸時代に入ると土佐街道の始点として商業が発達し、港町として発展した。土佐藩参勤交代の経路として四国山地を越える土佐街道を利用し、宿場町として栄えた。

1985年昭和60年)3月に、四国で初めての高速道路、土居インターチェンジ三島川之江インターチェンジが開通した。

2000年平成12年)3月に、川之江東ジャンクションの供用開始により、川之江ジャンクションと併せて四国の「エックスハイウェイ」が完成する。

因みに、市内中曽根町の三島公園に四国高速道路発祥地の碑、また、柴生町の四国高速道路クロス地点展望台に四国高速道路クロス地点モニュメントがある